「伝統」に隠された真実と、「伝統」の意義

ネット社会の進展により、かつては考えられなかったほどの情報が簡単に手に入るようになった。その中には謂わゆるフェイク情報も多く含まれているが、一方で、これまで「真実」とされてきた歴史の検証も容易になり、人々は無批判に騙されにくくなった時代でもある。

そうした中、日本の「伝統」と思われてきたものの中にも、実は事実ではなかったものが多く存在することが、信頼できる文献や研究によって明らかになっている。

 

私自身も、真実の歴史を知っていく中で、「加賀友禅」「加賀五彩」「宮崎友禅斎」に関するこれまでの通説が、実は真実ではなかったのだと気づかされ大きな衝撃を受けた。40年余りの作家人生の中で何度も疑問を抱いたものの、調べ方が分からず、周囲に尋ねても同じように曖昧なまま、「おかしいね」とやり過ごしてきた。

 

しかし3年前、若い研究者の助言をきっかけに、仕事の合間を縫って加賀友禅の歴史を調べた結果、若い頃から信じていたことが、実は業者による販売戦略として作られたフィクションだったと分かった。今でいう「ブランディング」のようなものだったのだ。

つまり、「宮崎友禅斎という京都の絵師が金沢に来て友禅染を広め確立し金沢の地で没した。加賀友禅の着物が加賀藩で作られ、『加賀友禅』の名称が江戸時代から使われていて、、、、」という事実は無かったということなのだ。

 

調べ始めた当初は裏切られたような気がして、強い憤りを感じた。

しかしながら、私自身半世紀近くの加賀友禅の創作活動を通して確かに実感してきた真実がある。

それは、優良な加賀友禅の着物には、伝統と格式の象徴にふさわしい品格がある。加賀友禅全てがとは決して言えないが、戦前からの優秀な作家が手がけた一部の着物には目を見張るものがあり、若い頃に初めて目にした加賀友禅の美しさに魅了されたこと。

自然のモチーフをデザイン化しつつ、写実性を重んじた繊細で洗練された色使い。そのビジュアルに惹かれ、これなら私が夢見ている未来の作家活動に繋がれると確信し、加賀友禅の道に入る一抹の迷いを見事に振り払ってくれ、現在に至っていること。若き日に夢見ていた、作品を通して直接社会と関わり感動を共有できる喜び、年齢を重ねた今も若い頃のまま、ワクワクしながら創作に情熱を燃やせる幸せ

 

これらの経験から私自身が言えることは、たとえ派手な物語が虚構だったとしても、日本人の美意識、アイデンティティは友禅染めの歴史の中に脈々と受け継がれてきたことは紛れもない真実だということ。それは室町時代から続く絵師や職人たちの努力、美を愛する情熱によって成されてれてきたものだということ。そして、私は確かに、上っ面の作られたストーリーによってではなく、友禅染めのいくつもの気の遠くなるような作業工程の実践の中でそのことを身で感じ先人たちに感謝しながら創作活動をしてきたという事実。

 

真実の歴史を知った今、人生の最終章を前にして、作家として、人として、「伝統」の本当の意味を理解できたように思う。そして同時に、不思議なことなのだが、ビジュアル表現のための道具がデジタルに変わった今も、21世紀のグローバル社会において、以前にも増して日本の「伝統工芸作家」としての責任感が強くなっていることを確かに感じるのだ。

 

 

「伝統」の定義についても、再考の必要性を強く思う。

 

 

加賀友禅の歴史と実態

1. 宮崎友禅斎と金沢

宮崎友禅斎は京都の絵師で、晩年金沢の紺屋「黒梅屋」に住み込み、友禅染を広めたとされる。しかし、その生没年や詳細な事績は不明。

文献としてはその著と思われるものがあり、元禄(1688~1704)前後の京都に居住して扇面の絵や衣装の模様を描き、大いに世間に宣伝された画工であったろうということは想像されるが、これといわゆる友禅染の技術の開発とを結びつけて考えることにはやや無理があるように思われる。

戦災を受けていないにも関わらず、金沢にそれほど古い優品は残っていない。京都には友禅染めの工程で欠かせない青花の原料となる露草の畑が今も残っているが、金沢にはそのような痕跡も文献も無い。加賀藩で友禅染めの着物が全国的に出回るほど多く作られていたとしたら、その間京都は何をしていたのかという疑問。 

 2. 「加賀友禅」の名称の由来

「加賀友禅」という名称は、江戸時代には無く、大正9年(1920年)ごろに銀座の百貨店で新商品の「訪問着」に付けられた名称である。「昔は加賀友禅という言葉を知らなかった。最近有名になった」とは、明治20年、30年生まれの大正時代の金沢の人々が当時一様に言った言葉である。 

3. 加賀友禅の特徴「加賀五彩」

戦後の高度経済成長期に、加賀友禅の問屋が九谷焼の「九谷加賀五彩」に倣い、「伝統」としてブランディングした。しかし、この「加賀五彩」に関するは文献がなく信頼できる根拠に基づく定義もなされていない。紹介する人によって色の解釈が異なる。

4. 友禅染の起源

室町時代の「辻が花染め」には、友禅染めの主要技術である糸目糊置きによる色押し技法が部分的に用いられていた。掛け軸、仏画(現存)の中には完全な友禅画がある。また、江戸初期の仙台藩で使われていた貝模様の友禅染めの産衣が発見され、宮崎友禅斎が絵師として活動した元禄時代(1688~1704年)より30年も前から友禅染の技術が存在していた。

5. 江戸中期以降の友禅染の展開

江戸中期から後期にかけて、京都で作られた友禅染は全国に流通。元禄時代には、宮崎友禅斎が扇面絵師として活躍し、その模様が流行したことで加賀に限らず全国的に「友禅染め」の名称が定着した。江戸後期から明治にかけてようやく加賀藩でも顔料彩色の友禅染が加賀紋の中に見られるようになった。

6. 明治・大正期の加賀友禅

明治時代になると、武家文化の衰退により全国的に城下町の産業が低迷。加賀染めも例外ではなかった。大正9年ごろに三越百貨店が着物振興に力を入れ、その中で命名された「加賀友禅」の名前が知られるようになる。この時期にドイツの化学染料が導入され、現代の加賀友禅の製造工程が確立された。

7. 宮崎友禅斎の墓石について

金沢市東山の竜国寺にある「友禅斎の墓」とされる墓石には、本物である証拠が無く、むしろ後世に作られた可能性が指摘されている。


参考文献

 

  • 『加賀のお国染・友禅と加賀紋』花岡慎一(フジアート出版)
  •  山辺知之元東京国立博物館染織室長(加賀のお国染・友禅と加賀紋』花岡慎一(フジアート出版)
  •  河原田康史/論文「宮崎友禅斎と友禅染・友禅斎の墓石について」
  • 『日本の伝統という幻想』藤井青銅(柏書房)
  •  荒木由希/論文「着物産業と伝統について」

 

 

 

 

  

  

 

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